「年越し派遣村」のミニ・エスノグラフィ(前半)

※こちらのブログでは、日々の研究活動の進捗のほか、活字化できなそうだけど書いておきたいことを、記録のために残していきたいと思います。

※その第一弾として、高校1年のときに2009年1月の「年越し派遣村」に参加した記録を、2013年夏に大学の授業(文化人類学)のレポートとして提出したものを掲載してみます。文化人類学を専攻していたわけではないので、概念の使い方とかは間違っているかもしれませんが、ご容赦ください。

※このレポートを書いた2013年夏は、東日本大震災の被災地への調査に行く直前で、被災地に「調査」に行くことそのものに色々と逡巡していた時でした。このレポートの提出版の後半は、派遣村での経験と被災地「調査」との関係について考察しているのですが、それについてはまだまだ整理が必要だと思うので、現時点では公開は控えようと思います。

 

はじめに

 2009年1月3日から1月5日まで、私は東京都の日比谷公園に特設された「年越し派遣村」でボランティアをした。3日間、のべ24時間ほどを派遣村で過ごした計算になる。この3日間はけっして「フィールドワーク」を行ったわけではなく(当時は高校1年生であり、人類学的なフィールドワークについては無知であった)、ノートもつけていない。 
 ただ、ふと記憶を頼りにしてでも自分の「派遣村」での体験を書いておこうと思った。それは、これから被災地の調査に行くかどうか悩んでいたからだ。このレポートでは、授業で学んだいくつかの人類学の考え方を補助線にしつつ、記憶を頼りに「派遣村」のミニ・エスノグラフィを書いてみたい 。

 

コムニタスとコミュニティ
 授業で例にあがったように、「派遣村」はコムニタスであると理解するのがわかりやすい。年末年始という一年の中で最も祝祭的な時期に、官庁や企業に囲まれた公園に現れたキャンプ村は、まさしく反・構造的な、非日常的な空間だった。開設された2008年12月31日から2009年1月5日までの6日間で、身を寄せた派遣労働者は499人、登録ボランティアは1692人に達した(年越し派遣村実行委員会編2009:76-77)。
 しかし、「派遣村」は誰にでも解放された空間ではなかった。そこにいることが許されたのは、派遣切りにあって行く当てを失った労働者と、ボランティアだけであった。たとえば、ボランティア登録をすると、軍手とバンダナを渡される。バンダナはボランティアであるかどうかを識別するシンボルで、バンダナを身に着けてない人がうろつきまわることは許されなかった。特に厳しく排除されたのは写真を撮ろうとする野次馬で、村内では「撮影禁止」というプラカードを持ったボランティアが巡回し、しばしば野次馬を注意していた。そのため私も派遣村での写真を1枚も撮っていない。
 そもそも「派遣村」の「村」という表現は、メンバーや空間がはっきりとしていることを示唆している。こうなると、「派遣村」はコミュニティであったということもできるだろう。例えば大手新聞社への入社を控えた大学4年生の女性は、ボランティア体験記に「名前も知らない人同士が、力を合わせている。このように、入村者もボランティアも「村」の当事者なのである」と記している(年越し派遣村実行委員会2009:116)。「派遣村」はボランティアと解雇された労働者が「村民」して活動する、実践コミュニティであったと理解することができるだろう。
 しかし、その実践コミュニティから排除された人々の姿もあった。日比谷公園には常住するホームレスたちである。私が彼らの存在に気付いたのは、カンパを得るために公園内の通行者にリンゴを売っていた時だった。
 派遣村には全国から大量の支援物資(特に食料)が送られてきていたため、実は食料が余っていた。特にリンゴは送られてきた量が多かったため、ボランティアのリーダーたちは、これらのリンゴを4個100円程度で通行人に売って、得たカンパを派遣村の運営費に回すという作戦に出たのだった。私たちのグループが売っていたリンゴは、たしか長野の共産党支部から送られてきたものだった。
 私は、文系の大学院生と名乗る人と2人組で、派遣村の敷地から出て、公園内でリンゴを売り歩いた。2人でリンゴ4個入りにしたビニール袋を両手いっぱいに持っていた。大学院生が数名の男性たちに「カンパにご協力ください」と声をかけたとき、私はとっさにヤバいと思って目をそむけた。彼らが日比谷公園のホームレスたちだと思ったからだ。一人の男性が「何勝手に商売しているんだ」という旨を吐き捨てた。私たちはそそくさと立ち去るしかなかった。
 もちろん、常住するホームレスと、年末だけ避難してきた労働者は見ただけでは区別がつきにくい。もしかしたら、常住するホームレスの中にも村内に紛れて炊き出しをもらいに来た人もいるかもしれない。しかしながら、ホームレスたちから私に向けられた視線と「何勝手に商売しているんだ」という言葉からは、年末の日比谷公園に現れたコムニタス、あるいは実践コミュニティにも、やはり排除の問題があった可能性が示唆されるのである 。
 
二項対立
 たしか1月4日、支援物資の整理作業をしながら一人の派遣労働者の方と、雑談をする機会があった。関東地方の自動車工場を解雇されて、数日間歩いて日比谷公園にたどり着いたという彼は、私たちと共に支援物資の分類作業にあたりながら、次のように語ってくれた。
 
「今日の朝、ボランティアの人の『ゴミを運ぶので誰か手伝って下さい』という声が聞こえたのに、テントにいる(派遣労働者の)奴らは、誰一人として腰をあげようとしない」
 
彼はテントにいる派遣労働者たちに怒鳴って叱ったという。ただ、彼は次のようにつづけた。

「そんなだから、奴らはダメなんだ。だけど、そうなったのは奴らのせいだけじゃない」

 まず、ボランティアに混ざって支援物資の仕分けをし、手伝おうとしない派遣労働者たちを怒鳴りつけた彼の行為は、ボランティア/派遣労働者という二項対立をつなぎあわせる。前節で述べた「村」としての一体感は、彼のような労働者の実践にも支えられていた。
 さらに彼の語りは、貧困問題に関する「社会(政府)の責任/自己責任」という、より大きな二項対立をも揺るがしている。貧困問題はしばしば「社会の責任/自己責任」という二項対立の構図で語られる。ネオリベラリズムを背景とした貧困の自己責任論は、「派遣村」の報道番組のパネリストからも頻出し、一方「派遣村」村長の湯浅誠はこうした自己責任論を批判する立場にある。
 こうした構図の中をおさえた上で、彼の実践は次のように整理できるだろう。彼自身には「社会の責任」に押し付けることなく生きてきたというプライドがあり、そのため彼自身はボランティアを手伝い、「腰をあげようとしない」派遣労働者たちを怒鳴った。しかしながら、ボランティアの学生である私に「奴らのせいだけじゃない」と語ることは、「奴ら」に対する同情ももちろんであるが、それ以上に「社会の責任」に押し付けることなく生きようとしても、「自己責任」では語り得ない苦境があることを伝える意味があったと考えられる。

(つづく) 

 

参考文献

年越し派遣村実行委員会編2009『派遣村 国を動かした6日間』毎日新聞社