北三陸巡検報告(2015年3月)

※2015年3月(社会人になる直前)に2泊3日で行った、北三陸巡検のノートです。

 

2015年3月21日

朝7時前、バスで宮古駅到着。バスで浄土ヶ浜へ。遊覧船にのる。JRのポスターで吉永小百合の隣に写っているベテラン女性ガイドさんの案内で、湾内をクルージング。

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ウミネコへの餌やりが楽しめるが、窓からパンを投げると大群ですぐに寄って来て怖い。この船は、3.11の日は地震発生後乗客を降ろし、沖出しをして助かったという。

遊覧船から降りて、奥浄土ヶ浜まで歩いた後(津波碑あり)、さらに歩いて岩手県水産科学館へ。漁具の展示などもあり、綾里の人々が大船渡の神社へ奉納した絵馬もあった。あと、水中カメラマンの写真展が素敵だった。バスを逃したので歩いて宮古市内へ戻り、知り合いの先生におすすめされたラーメン「福」で昼食。おいしい。おにぎりやお弁当持ち込み可という太っ腹の店。13時すぎの北リアス線で田老へ。田老では降りてすぐにガイドが迎えに来ており、予約していた人たちは車に乗り込んで行った。スーパー堤防を見て、図書館に行って見たが特別整理期間で休み。1時間ほどで引きかえし、夕方には宮古市街へ戻ってホテルにチェックイン。結構スナックが多い街だが、夕食はフリーペーパーに載っていた喫茶店で「カツスパ」を食べた。

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津波防災の町」田老の「スーパー堤防

 

2015年3月22日
ホテルで朝食後、9時過ぎの北リアス線普代村へ移動。10時過ぎに到着。シイタケ栽培がところどころで行われている急な山道を歩いて、太田名部集落へ。山道を下りはじめると左右に家が並んだ町並に。昭和三陸津波後の高台移転地である。すれ違ったおばあさんに「孫ににてる」(久慈の高校に通っているらしい)と話しかけられる。高台移転地を「復興地」とは言わないらしい。高台移転地を下りると、15.5mの堤防が見え、圧巻である。堤防を出たところにある定食屋「魚定」で刺身定食を食べた。昼食後は普代浜、普代水門(近くには堤防と水門をつくった村長の顕彰碑)を経由して、元村役場庁舎に入っている図書館と郷土資料室へ。『太田名部物語』などを複写。

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普代村太田名部の昭和三陸津波後の高台移転地。ここは、昭和三陸津波後に入会権訴訟が起き、名子=地頭制が崩壊した村として山口弥一郎が取り上げている。『普代村史』によれば地頭一家がほぼ津波で全滅したことが原因のようである。津波後の社会変動を考える上で、興味深い事例。

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普代水門、おそらく昭和三陸津波後に植えられたマツの防潮林、2体の顕彰碑(右側は昭和59年の普代水門竣工記念、題字は鈴木善幸、左側は平成25年3月11日に建立された、元村長和村幸得の事績をたたえるもの)。色々と考えさせられる景観である。

14時過ぎ北リアス線で久慈入り。久慈に近づくほどに「あまちゃん」に関する車掌さんからのアナウンスが多くなる。15時ごろ久慈について、ホテルにチェックインした後、歩いて5分ほどの図書館へ。司書さんに助けてもらいながら、山口弥一郎へファンレターを出していて、自身も津波関連の資料を集めていたという、ある人物の経歴を調べることが出来た。図書館から歩いて30分程で、湊町へ。震災で浸水はしているが復興は速く、比較的古い建物が立ち並んだ良い雰囲気の町場である。公民館から太鼓の練習の音も聞こえてきた。歩いて19時に久慈市街に戻り、大学の先輩と飲む。


2015年3月23日
7時にホテルをチェックアウト。三鉄の駅にある三陸リアス亭で「ほたてそば」を食べて、盛岡行のバスに。10時前について県庁文書を閲覧。住宅組合に関するいくつかの新しい史料を見つけることが出来た。雪がひどく寒いので、昼飯は「パイロン」でじゃじゃめんではなく、暖かい麺をたべる。14時頃引き揚げて県立図書館で「太田名部物語」「普代村史」などコピー。夜は別の大学の先輩と夕食の後、23時のバスで帰京。